食物とエゴ

ヒトの食べる物はいくつあるのでしょうか?太古の昔、樹上生活をしていたヒトの先祖が食べた物は想像がつきます。その樹木の葉、実、芽、皮、昆虫、小動物などでしょうね。彼らが地上に降りてきてからは、食べる物の種類は飛躍的に増えたことは知られています。二足歩行は手を自由に使えるようにしましたが、直立した身体の真上に脳を置くことができたことも見逃せません。まるで脳の増大を誘うような位置だからです。これで仮に脳が重くなったとしても、十分に支えられるようになりました。そして実際そうなったのですが。なぜなら、手の動きこそは脳と直結しているからなんです。この時から手と脳は、お互いに刺激し合いながら発達の道を歩いていくことになります。

とる→採る•捕る•摂るなど、手偏の付く漢字は、食物を手に入れる様子を具体的に表わしています。
①木の芽を採取するとは、指先で摘みとること。
②獣や魚を捕獲するとは、罠や網や釣り針などの道具を使うこと。
③栄養を摂取とは、栄養物を体内に取り入れること。
ヒトは他の生物に比べて、栄養を取る方法も量も質も抜きん出ています。なにしろヒトは10本の指を器用に使い、その動きこそが脳を刺激し発達させ、それでカサが増した脳は肉体の真上にあるので十分に支えられながら、10本の指に新しい指使いを迫るという、ノンストップのストーリーがここに始まるわけです。

ここで、私見を述べます。エゴの誕生の瞬間を翻訳してみます。サル目ヒト科の動物の現存種はホモ•サピエンスのただ1種。人類にエゴは付きものですが、私は先にエゴは人間の脳の同居人と言いました。では、同居する前のエゴは❶どこにいて、いったい❷何者だったのでしょうか?
❶エゴは、時間の中にいた。
❷エゴは、火だった。
もう一度念を押しておきますね。エゴは悪いものではありません。生物は、生きようとするのが自然ですし、大自然には生きるか死ぬかの場面も多いのです。生物の最期は、他の生物から捕食されること以上に、餓死という結末がほとんどです。植物の終焉も、水分や太陽光や適温の不足という、エネルギー飢餓からやってきます。

さて、いつの時代からか人間には問題が生じ出したのです。その問題が
①気温の場合
寒い!→暖を取る。暑い!→涼しくする。
②食べ物の場合
固い!→柔らかくする。大き過ぎる!→細かくする。腐る!→保存する。
③身の安全の場合
危険(他の生物から襲われる、夜と暗闇)‼︎→炎の明かり。
以上の場面をちょっと想像してみて下さい。現代の私たちから見ると、これらの問題に対応するのに必要なのは、道具だとイメージできます。その道具の中のトップは、何といっても火でしょうね。

人間以外は火を扱えません。それどころか他の生物は、火を怖がります。ヒトも始めの頃は火を恐れていたのでしょうが、どういった経緯からか文字通り、火を手中に収めました。落雷で発火した木を見つめているヒト。赤黒く流れる溶岩を眺めているヒト。太古の地球のどこかで誰かが火を手にしました。脳がその手に指示したのか、火を手にして脳に意識をさせたのか。まさにその時、ヒトは人間になり、火はエゴになりました。

さあ、これで日が暮れても炎の明かりがある。これまでよりも暗闇がやって来るのを遅くできる。時間の発生です。
やがて人間は、加熱という調理を会得します。焼く、あぶる、煮る、炒める、蒸す。食材の広がりを実現し、他の生物よりも寿命を延ばし始めます。時間の延長です。
夜の冷え込み、冬の寒さを火で暖をとる。苦痛の時を減らす。時間の短縮です。

太陽が昇れば朝、そのあとしばらくは昼、太陽が沈めば夜。今でも他の生物は、野生である限りそのサイクルを生きています。ところが野生をやめた人間は、太陽という火とは別の火を手に入れたと思い込んでしまいました。その上、火は作れるものだと考えだしてしまいました。1日のサイクルを変えたつもりになり、時間を発明できたつもりになったのです。

私見の、エゴの前身は火であり時間の中にいたことは先に述べています。生物が生きようとする反応を本能と言っていいのなら、ヒトはその本能に火と時間を加えて人間になったのです。エゴが、人間の脳の同居人になった瞬間です。