これからの臨死体験 (10)

兄の臨死体験から40年以上の時間が経って、2006年2月にアニータ・ムアジャーニは臨死体験をしました。私の母にいたっては、その半世紀近く前に体験しました。その間に社会がどれほど変化したことでしょう。

かつて私たちは、歩きながら話しをしました。すぐそばを一緒に歩いている人と。今は違います。歩きながら話している相手は、そこにいない人です。そばにあるのは、ケータイです。
かつて私たちは、紙(便せん、ハガキ)にペンや鉛筆で文字を書き、手紙にしてポストに入れました。今は指でメールを打ちます。ケータイはあっても、そこには筆記用具はありません。
かつて私たちは、初めての場所に地図やメモを片手に行きました。電柱や知らない家の郵便受けに表示された住所と照らし合わせながら歩きました。今はGPSを頼りにどんな所へもたどり着きます。

今、ケータイを持っている人は何人いるでしょう。数える気もしないほど多いことははっきりしています。『100匹目の猿』現象とは、どのようなものも一定の数を超えると一気に別物に変化していくことでした。水という液体が0度になると氷という固体に変化する氷点、同じ水が100度になると水蒸気という気体に変化する沸点。この現象は臨死体験の世界にも変化をもたらしています。
私は前回に、臨死体験をする人が2種類にわたって増えてきていると言いました。
一種類めは、西洋医学が救命の精度を上げてきたことです。昔は助からなかった生命が、今では文字どおり救われています。これからもその数は増すでしょう。
では、もう一種類とは何でしょうか。それが、今後その数を増やしていく『これからの臨死体験』だと思うのです。

友人から、ある日電話がありました。アニータの本を絶賛した後、彼は私にこう言うのです。
これまで何冊も臨死体験の本を読んできたが、アニータのようなケースは生還後の活動も含めて、今までなかった。やはり臨死体験にもその人のレベルの違いがあるのだろうか?
私は言いました。レベルの違いはまったくない。その時代の人びとの意識の量が、その時代の臨死にも影響をおよぼす。これからは、死ななくても臨死体験をする人が増えてくる。

これからの臨死体験 ⑼

それは、『臨死体験をする人がこれから増えてくる』ということです。しかも2種類にわたって増えていくでしょう。そして実際にそれは増えてきています。その実例を見逃さないためには、私の母と兄とアニータの臨死体験の共通点と違いを振り返ってみる必要があります。

まず一つ目の共通点は、母とアニータの視点です。2人は臨死中に自分とまわりの人を眺めています。身内、看護師、医師の動きを見ています。
二つ目の共通点は、2人の思いです。私はどうしたのかしら?私は愛する人を残しては逝けない。彼女たちは、不用意の死に納得をしていません。
三つ目の共通点は、生還したあと、2人とも肉体的にさほど苦しみませんでした。なぜなのでしょう。

私の母は結核の末期、アニータは癌のステージ4のBつまり末期です。2人とも長期の闘病生活でほとんどの体力を消耗した上で死んでいきました。生き返った時の2人は、残り少ない体力をフルに使って心臓を動かし横隔膜を上下させ、肺から二酸化炭素を出したあと酸素を入れました。つまり2人には、呼吸する以外は苦しむ体力も残っていなかったということです。

一方、私の兄の臨死体験は2人と大きく違っています。まず、視点です。兄は光の方を見ています。倒れている自分の肉体を見ていません。それどころか、私やバンドのメンバー、スタッフの方を見ていないのです。
では、二つ目の兄の思いはというと、光に包まれた感覚だけです。至福の時を味わっていました。
三つ目の、生還後の肉体的なコンディションになると、兄は苦しみの極致を体験しました。5時間にわたって吐血を繰り返し、文字どおり身もだえしたのです。

この大きな違いを一つひとつチェックしていくと、あることがわかってきました。臨死体験という場面の広大さです。臨死状態の世界の広さとでも表現したらいいのでしょうか。その人その人で、見え方が違うということです。もちろん感じ方も。整理します。

私の母とアニータは闘病生活を送りながらも病状が悪化していき、死を考えないわけにはいかなくなっていった。臨死の時、2人とも死を自覚した。でも、このまま死んで行っていいのかと自問し、それは困るので戻ることにした。
一方、兄は死に気づかなかった。だからなのか兄は光に浸り光を味わい、そこがどこかは問題にならなかった。私と仲間に引き戻されて、あとであれは死だったのだと自覚した。
兄は死に始める直前まで闘病生活をしていない。ということは、音響機器の試作に4日連続徹夜したとはいえ、闘病に比べたら体力は存分にあった。体力とは、生命力の大事な材料こと。その材料は燃料にもなるので、兄は生還したあと燃料をたっぷり使って痛みを感じ苦しんだ。

ここで、アニータと私の母と兄の最大の共通点を確認しておきます。それは、3人とも1度死んで生き返ったことです。そしてもっとも異なる点は、アニータは死んだ時この世の仕組みがわかり、人はなぜ病気になるのかも理解しました。そしてそれを本にして発表したのです。一方、母と兄の場合は、臨死体験をひとつの不思議な思い出として人生を生きました。

この違いは見逃せません。ここで、以前に私が書いた『100匹目の猿』(2016年12月26日付け)を思い出して欲しいのです。その上で、臨死体験は発火点まで来たことを語ります。

これからの臨死体験 ⑻

「とにかく、気持ちが悪くて」
兄は語り始めました。
「トイレに行こうとしてベッドから立ったのは覚えているんだけどね」
「テーブルの下に倒れたのは?」
すかさず私はききました。
「そう、その記憶がないんだ。ただ、別の記憶があってね。それがすごかった」

兄の体験はこうでした。テーブルの下に背中から倒れた時、亡くなり始めていた。もうその時点では苦しくなく、どうやらどこかへ出かけていたようで、その場所は薄暗く、遠くから水平に白い光のようなものが自分に向かって近づいてきた。ということは、トンネルのような暗がりを歩いていて、自分の方から白い光に向かっていたんだろう。しだいに光に近づいて行くと、今度はいきなり光に包まれていた。明るいけど眩しくはないその光は、液体のようで温かかった。

「でね、なんともいえないほど気持ちがいいんだ。何かが見えるわけじゃない。ただ光だけ。だけど幸せっていうか、ただただうれしくって」
兄は語りながら、まるで今それを味わっているかのように至福の顔になっていました。というより、恍惚とした表情でした。私が今でも憶えている兄の言葉を羅列してみますと、
「思考はしていなくてね、なんていうか感情と感覚だけの状態、かな」
「すべてを理解し終えた後のような安堵感だね」
「安心が喜んでいるみたい」

ところが、この辺りから兄の体験の内容が変わってきます。
「満ち満ちている自分を眺めている自分に、突然気づくんだ。エッと思った瞬間、何かが聴こえるんだよ、しかも耳元で。それがマモくんの声だったんだ」
(マモくんとは、私の呼び名)
「それが大声でね。『兄さーんッ!兄さーんッ!兄さーんッ!』って、うるさいのなんの。あんまりうるさいから、返事をして黙らせようしたんだ。その途端、今までいた安心の世界からこの身体に引き戻されたんだろうな」
惜しいことをしたとでも言うように、兄は苦笑していました。その顔が切ない表情に変わってくると、兄はゆっくりと噛みしめるように言いました。
「それからが辛かった。痛くて痛くて。ほんとに苦しかったね」

兄が倒れたあの時、私の呼び声に力なく目を開けた兄。
うつろな目を泳がせて、「目が見えない」とつぶやいた時。
兄の耳元で私は叫ぶ。
「プラーナヤーマ(ヨガの呼吸法のひとつ)をやらんと!人にヨガを教えるくせに!自分でやらんと!」
再び意識を失っていく兄。
W病院の一室で吐血を明け方まで繰り返した兄。

臨死体験中の兄と、私たちの起こしたアクションと私たちが目撃した出来事との時間軸の違いは、一体なぜ生じるのでしょう。それはもはや、謎ではありません。アニータ・ムアジャーニの1冊目の本『喜びから人生を生きる』を読んでいる最中に、私はあることを直観しました。

これからの臨死体験 ⑺

下半身だけが、抜けるようにだるくなってきたのです。これはどういうことなんだ?私はしゃがんで兄の左手を握っているから、足が疲れるはずがない。でも、すぐにそれは下腹部の重みだとわかりました。腹を全方向から押されるような、腹そのものが熱を出してたぎるような感覚。そして感覚は痛みに変わり、しかも強烈になってきたのです。
「わるいッ、代わってくれ」
中元寺に代わってもらい、私はトイレに向かいました。

W病院のトイレは和式でした。尾籠な話になりますが、強い痛みの私はそこで用を足しました。そして何となく便器を見ると、それは排せつ物というより大量の下血でした。それを見て私は声を発しました。
「よおし!」
私にはわかったのです。来たぞ。やっと来たぞ。兄じゃなくて俺に来た。
先ほどまでの私の痛みは、まったく消えています。それどころか、すっきりした気分です。私は急いで病室にもどっていきました。

ドアを開けて兄を見ると、寝息を立てて寝ています。一晩中ずっと立ちっぱなしだった坂井も、ベッドわきにすわっています。私と目が合った坂井は言いました。
「ついさっき、すうっと眠り始めました」
私はうなづきました。高橋は少しホッとしたのか、疲れを浮かべた顔で目を閉じていました。母は兄の寝顔を見続けています。まだ兄の左手を握ってくれている中元寺の肩をトントンとやって私は言いました。
「サンキュー。代わろう」

再び兄の左手を握った私は、自分は興奮しているとばっかり思っていたのに正反対に静かなのを知りました。安心というのか、充実というのか、穏やかというのか。おかげで私は4人に、トイレでの一部始終を静かに語ることができました。母も坂井も高橋も中元寺も、誰ひとりとしていぶかしそうな顔をしません。それどころか、兄が吐血しなくなったタイミングと私のトイレの一件がぴったり合ったことに感心していました。

私たちから連絡を受けた医師がほどなくしてやって来ました。静かに寝入っている兄をひと通り診た医師は、けげんなそうな顔をしながら自分自身につぶやくように言いました。
「安定してるので、このまま様子をみましょう」
母の会釈にこたえながら医師は病室を出で行きました。

その日の昼前、兄は目を覚ますとその疲れた顔で病室内を見まわしました。そして私たち一人ひとりを見たあと、こう言ったのです。
「ここはどこ?」
この定番のコメントに、つんのめるやら呆れるやらホッとするやらで、みんな苦笑したのを憶えています。

すぐに退院を主張する兄に医師は当惑しながらも、ある提案をしてきました。とにかく、このまま帰すわけにはいかない。なぜなら、深夜の状態からして今の状況はありえないし体力の消耗も激しい。よって、精密検査をしたい。もちろん、こちらからの提案だからその間の入院費はいらない。それに対して余裕の私たちは、医師を気の毒に思い彼の願いをきき入れました。

結果、たび重なる吐血による貧血は認められるものの、どこからの出血なのか、なぜ出血したのかは判明できませんでした。4日後、死から生還した兄は私たち5人、母、坂井、高橋、中元寺、そして私がイメージしたとおり、日中の日差しを受けながらW病院の玄関を退院していったのでした。

帰宅した兄は自分の体験を私たちに語り始めました。それは、まぎれもなく臨死体験でした。