これからの臨死体験(11)

私の母と兄が体験した臨死を知っている人は、数が限られていました。親族、友人、知人のせいぜい数十人だったでしょう。今はその数が少し増えました。これを読んでいる人の分だけ。でも、当時は臨死体験という言葉すらなかったのですから、母も兄も体験を語るとき、言葉を選び慎重に人を選んだことでしょう。おかしな人、今で言えば危ない人と思われたくなかったでしょうから。

では、今はどうでしょう。この『これからの臨死体験』を読んでいるあなた、あなたは抵抗をそれほど感じなかったのではありませんか。それどころか、あなたが本屋に行って臨死体験の本を見つけるのにも苦労はしないはずです。精神世界、言うところのスピリチャル系のコーナーに立ったあなたは、その数の多さにむしろどの臨死体験の本にしたらいいのか迷うことでしょう。そういう所へアニータ・ムアジャーニの登場です。彼女の体験によって、臨死は次のステージに入りました。

まるで私たちのために1度死んで、再び生きて帰って来てくれたとしか思えないアニータの旅。彼女の『喜びを持って人生を生きる!』『もしここが天国だったら?』の2冊の本は、死後の旅の道案内ではなく、生きて行く旅のガイドブックです。
死ぬことを『旅立ち』とも言います。それは、どこからどこへの旅なのでしょう。この世からあの世へと言う人もいます。いや、死とは何も無くなること、その人のすべてが消滅するのだと論じる人もいます。では、1度死んで再び生き返った人は、消滅したものが再び発生したということなのでしょうか。

いいえ、消滅もしていないし発生もしていないのです。人に限らず、物はずっとあるのです。ただ形を変えているだけなのです。科学の最先端である量子力学は、その事の観察の成果だと言えます。私たちに見える状態が粒子、見えない状態が波動で、量子はその両方を持っていると量子論は説きます。「天国とは、場所ではなく状態のことでした」とアニータもユーチューブで語っているのは、単なる偶然ではありません。是非、あなたもそのスピーチを目撃してみて下さい。

ユーチューブをすぐに見る人、少しあとで見る人、後日に見る人、スマホやパソコンがないのでそもそも見ることができない人。どの立場の人にも、ひとつだけ言える重大な事があります。人が見ようが見まいが、アニータの映像はユーチューブの中に存在するという事です。そして、見た人は映像(粒子)として、見ない人や見る事ができない人には私の話(波動)としてアニータをとらえるでしょう。
「話が見えてこない」
時おり耳にするコメントですが、なかなか示唆的です。

盲目の画家で、チューブから出した絵の具に触っただけで色が分かる人がいます。もちろん、クレヨンやクレパスは指で持つのでそのまま色を使い分けて描きます。
2015年9月21日のブログ『音のいる場所に耳を澄ます』、同じく10月2日『見えない闇を観る』で私は、観音様について書いています。カンノンであって、ブンオン(聞音)でもチョウオン(聴音)でもありません。音を観るのです。この世あの世の、音を観察することを修行としている人、観世音菩薩。

さて、新しい臨死体験です。
死ななくても臨死体験をすると私は言いました。
ところが私がわざわざ言わなくても、実はすでに私たちの誰もが臨死体験をしているのでした。それを実感するためには、「死」をどうとらえるかが鍵になってきます。
次の最終回で私たちは、「死」の解釈ではなく「死」の翻訳をすることになります。