これからの臨死体験 ⑹

くやしさはひとつの事だけでした。この4日間の兄の疲労に、私が気づかなかった事です。飲まず食わずだけでも大変なのに、兄は何かに集中すると眠らなくなる。場合によっては、トイレに行くのも忘れてしまう。独身の兄とは私は別所帯で、その兄も30歳を過ぎていたのでまさかと油断したのがいけなかった。いや、今は悔やんでいる場合じゃない、兄が回復していくイメージに集中だと気を取り直そうとした時でした。

「代わろう」
中元寺が声をかけてきました。私が兄の左手を握って30分がたっていたのです。交代してもらった私は、あらためて兄を見ました。吐血を繰り返しています。その兄の口を坂井がぬぐう。その様子を涙を流しながら合掌して見ている母。高橋は壁の一点を思いつめた顔で見つめている。中元寺はしゃがみ込んで、左手で兄の左手を握っている。兄はまた吐血しました。私の思いが弱いのだろうか。私は、ひとり病室を出ました。そして、階段を降りて一階の玄関に向かいました。その玄関を兄が笑顔で出て行く光景を、私の眼にもっと強烈に焼きつけるためでした。

私は、玄関の四方八方を見つめたあと天井を見上げました。というより、天井をにらんでいたと思います。天井の上の、さらにその上の屋根にさす太陽。真っ昼間に兄が病院から出てくる。そのイメージをしっかり胸に刻んだ事を確認すると、私は病室に向かいました。それにしても腹が立つ。階段を上りながら、私は許せなくなってきました。
「一体、なんや!」
言葉が口をついて出ました。
「どういう事か?なんを言いたいとや?」

兄は、死線をさまよう経験を何度もしています。私が生まれる前にも、肋膜炎で危なくなり、世界初の抗生物質ペニシリンで助かっている。そのせいなのか元々なのか、兄は虚弱でした。10歳位まではよく鼻血を出していて、それがなかなか止まらない。多い時は週2回ほどで、しかもどうしてなのか朝が多く、首の後ろを冷やす氷を買いに私は走りました。中学の時も、貧血でしばしば倒れていました。兄は九州から上京してまもなく、22歳の時に交通事故に遭い全治2年の大けがをしています。その治療のための2度の手術と、計36本の輸血による肝炎。

丈夫な弟の私ではなく、いつだって重大な事に遭うのは兄。母に負けず劣らず信心深い兄なのに。そういう兄を守ってくれてもいいはずだ。神か仏か知らんが、誰に何をわからせたいのか。何かのパズルのつもりなのか。だったら、俺に来い。この頑丈な俺に示してくれ。

病室の兄の左手を握りしめながら、私は祈っていたのか怒っていたのか。坂井は、吐血する兄につきっきりなので、高橋、中元寺、そして母と、交代をしながら兄の左手を握りました。それを繰り返して、何度目かの私の番がきた時でした。午前6時を過ぎていたと記憶しています。私は、妙な感覚におそわれたのです。

これからの臨死体験 ⑸

病室に入った母は兄の一部始終を見て取るとすぐに坂井にかわり、吐血で汚れた兄の口をぬぐいました。そのあと母は私を病室の外へ連れ出し、廊下の長椅子にすわると私をじっと見てこう言うのです。
「今度だけは、いかんね。なんにもお答えがないとよ」
「エッ」
「お釈迦様もお稲荷様も答えてくれなさらん」
並はずれて信心深い母は、祈ることが支えでした。私も幼いときに何度か救われたのは、母の祈りでした。その母が駄目だと言うのです。

私は、病院の廊下で泣きました。嗚咽したと思います。医者も残念と言い、母も駄目だと言うのです。私は知ってたはずなのに。幼少期から体が弱かった兄。学校でよく倒れていた兄。だから人一倍健康を気にしていた兄。そのくせ、ケタ違いの集中力で物事に取り組み過ぎてしまう。飲食を忘れ、徹夜をして体をこわす兄。その兄が4日も製作に没頭していた。どうして兄を休ませなかったんだ。迂闊なことをしてしまった。その全部の思いが押し寄せてきていました。

ところが、泣いたからでしょうか、私は不思議なくらいに頭がすっきりしてきたのです。なにか切り変わったような感じでした。よーしと、私は病室にもどりました。兄は吐血を繰り返していました。私は言いました。
「みんな、聞いてくれ」
3人は私を見ました。
「一人30分交代で、兄貴の左手を握ってくれ。その時、兄貴が元気な顔でこの病院を退院していく姿をイメージしてくれ」
坂井も高橋も中元寺も、私の突然の発言にとまどっているようでした。
「今、説明しているひまはない。とにかく、下の玄関から兄貴がニコニコして出ていくところをイメージしてくれ。分からんかったら、下に降りて玄関の映像を刻み込んでくれ。イメージが薄れたら、何回も玄関を見に行けばいいから」

最初に私が兄の左手を左手で握りました。私は目をつむり、私たちの脱ぎっぱなしの靴で散らかった玄関を思い出しました。夜中ではなく、昼の玄関を思い描きました。そこを兄が笑顔で出ていくのです。私はそれほど苦労せずにイメージできました。我ながら鬼気迫るものがあったのだと思います。実はその時、くやしさと、ある事にどうしようもないほど腹が立ってきていたからなのです。

これからの臨死体験 ⑷

救急車がW病院に着くとすぐに、意識不明の兄は救急口から入り、私たちは一般口というか玄関から入りました。あとでわかる事になるのですが、この二つの入り口は、兄の体験したストーリーと私たち4人が体験したことの違いを象徴しているかのようでした。待合室の電話をとり、私は母に事の経緯をかいつまんで話しました。
「迎えに行けないから、タクシーで来て」

ほどなく、私たち4人は2階の個室の病室に案内されました。すでに兄はベッドに寝かされており、一目見て予断を許さない容体だとわかりました。呼吸が弱いのです。普段は肺活量が6500cc超もある兄なのに、胸の動きがまるでないに等しいのです。この状況をどう受け止めたらいいのか、私たち4人は身も心も硬直していたように思います。
この4人が文字どおり、兄のベッドを囲んで立っていました。

その時でした。兄がベッドから身を起こしそうにしたのです。それも、何かバネ仕掛けのように。すかさずマネージャーの坂井が兄の背中に手を添えて起こすと、兄は吐きそうにします。容器をあてがうと、それへ兄は吐血しました。鮮血ではなく、粘りのある赤黒いものでした。スタッフの高橋は、見るのもつらそうに目をそむけていました。そして兄は気を失ったかのようにベッドに倒れ込むのです。これを数分おきに繰り返すのです。

医師は私を部屋の脇へ促しました。兄の吐瀉物を持参した私を医学生とでも感違いしていたのか、彼はこう述べました。
「血圧が27しかない。なにかブランデーでも好きな物をやって下さい」
「エッ?ブランデーで治るんですか?」
「いや、酒、かなり好きなんでしょう?残念ですが、もう」
「ちょっと待って下さい、兄は酒は一滴もやりません!」
何を言ってる、この医者は、と私は思いました。どうしたらいいんだ、これは。そんな時、母が到着しました。

これからの臨死体験 ⑶

正確に言えば、私を含む3人はすでに玄関の外に出ていました。靴を履こうとしていたもう一人のメンバーが、兄の苦しそうな声に気づいたのです。4人が急いで部屋に戻ってみると、兄は顔をゆがめてベッドから立ち上がろうとしていました。
「どうしたの?」
「気持ちが悪い。トイレ」
「無理せず、そこで吐けばいい」
と、私は兄を制止し、流しにあったガラスの小鉢を渡しました。兄はそれに何か赤黒いものをもどしました。そして横になりました。

ところが、1分もしないうちに兄は「やっぱりトイレに」と起き上がったのです。今度は制止も聞かず、数歩あるいたところでテーブルの下に仰向けに倒れ込みました。私はすぐ抱きかかえたのですが、兄の応答がないのです。顔も先ほどと違って、表情がありません。これはいかんぞと思った私は、兄の顔に向かって声をあげました。
「兄さーんッ!」
後頭部を床で強打したぞ、ただ事じゃないぞと兄を呼び続けました。
「兄さーんッ!兄さーんッ!」

何度も叫んでいると、兄が反応してくれました。力なくですが、眼を開いたのです。そして、その焦点の合わない眼を空中に泳がしながら、不安げにこう声を漏らしたのです。
「眼が見えない」
私は反射的に兄に強く言いました。
「プラーナヤーマをやらんと!」
「・・・・」
「人にヨガを教えるくせに!自分でやらんとッ」
「・・・・」
兄は苦しそうな顔をしたあと再び無反応になりました。意識がなくなってきたのがわかりました。私たちは救急車を呼びました。時刻は深夜の0時を過ぎていたと記憶しています。

私は、兄を乗せたストレッチャーと一緒に救急車に乗り込みました。念のため、兄の吐瀉物の入ったガラスの小鉢をラップして持ち込みました。残りのメンバー3人は、楽器運搬車で追ってきています。車2台に分乗したとはいえ、兄を除く4人のこの時の行動はひとつ、兄の安否を気づかってのものでした。ただ、当の兄はどうだったかというと、まったくの別行動をとっていました。兄には、私たちとは別のストーリーが展開していたのです。そうなんです。臨死体験が始まっていたんです。

これからの臨死体験 ⑵

母の臨死体験から約20年後のことです。3歳上の兄は32になっていました。その夜は、バンドのメンバーとスタッフが兄の家に集まっていました。製作中のアンプができたと兄が集合をかけたのです。私たちの音楽活動は作詞作曲はもちろんのこと、演奏も自作の音響機器を使うというユニークなものでした。その器材の開発者が兄だったのです。

「まるまる4日かかった」と兄は疲れたようにつぶやき、試作アンプのスイッチを入れました。兄の「まるまる」は、飲まず食わず眠らずということです。弟の私にはわかりました。さて、そのアンプに楽器のコードを差し込み、いざ音を出そうとするのですが反応がまったくありません。4人が見守る中、兄は一旦スイッチを切るとアンプのカバーを開けて回路の接続のチェックをしました。そして再度スイッチをいれて音出しを試していた時、その間20秒ぐらいはあったでしょうか、なんとアンプから煙が出始めたのです。慌てて誰かが電源を切りました。

何かの原因で発熱したのでしょう。くすぶっているアンプを見下ろしながら兄は言いました。絞り出している声でした。
「だめだ。失敗だ」
ガックリきている兄に、みんなもかける言葉もありませんでした。でもそこは弟、気休めの言葉でもいいやと言いました。
「またやり直せばいいよ。とにかく、飯でも食いに行こう」
「僕はいい。食べたくない」
「食べてないんでしょ?行こうよ。九州ラーメンはどう?」
「食欲がない。構わないから行って」

結局、兄を残して4人で食事に行こうとしていた正にその時、兄は昏倒したのでした。