これからの臨死体験 ⑸

病室に入った母は兄の一部始終を見て取るとすぐに坂井にかわり、吐血で汚れた兄の口をぬぐいました。そのあと母は私を病室の外へ連れ出し、廊下の長椅子にすわると私をじっと見てこう言うのです。
「今度だけは、いかんね。なんにもお答えがないとよ」
「エッ」
「お釈迦様もお稲荷様も答えてくれなさらん」
並はずれて信心深い母は、祈ることが支えでした。私も幼いときに何度か救われたのは、母の祈りでした。その母が駄目だと言うのです。

私は、病院の廊下で泣きました。嗚咽したと思います。医者も残念と言い、母も駄目だと言うのです。私は知ってたはずなのに。幼少期から体が弱かった兄。学校でよく倒れていた兄。だから人一倍健康を気にしていた兄。そのくせ、ケタ違いの集中力で物事に取り組み過ぎてしまう。飲食を忘れ、徹夜をして体をこわす兄。その兄が4日も製作に没頭していた。どうして兄を休ませなかったんだ。迂闊なことをしてしまった。その全部の思いが押し寄せてきていました。

ところが、泣いたからでしょうか、私は不思議なくらいに頭がすっきりしてきたのです。なにか切り変わったような感じでした。よーしと、私は病室にもどりました。兄は吐血を繰り返していました。私は言いました。
「みんな、聞いてくれ」
3人は私を見ました。
「一人30分交代で、兄貴の左手を握ってくれ。その時、兄貴が元気な顔でこの病院を退院していく姿をイメージしてくれ」
坂井も高橋も中元寺も、私の突然の発言にとまどっているようでした。
「今、説明しているひまはない。とにかく、下の玄関から兄貴がニコニコして出ていくところをイメージしてくれ。分からんかったら、下に降りて玄関の映像を刻み込んでくれ。イメージが薄れたら、何回も玄関を見に行けばいいから」

最初に私が兄の左手を左手で握りました。私は目をつむり、私たちの脱ぎっぱなしの靴で散らかった玄関を思い出しました。夜中ではなく、昼の玄関を思い描きました。そこを兄が笑顔で出ていくのです。私はそれほど苦労せずにイメージできました。我ながら鬼気迫るものがあったのだと思います。実はその時、くやしさと、ある事にどうしようもないほど腹が立ってきていたからなのです。

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