ライト・マイ・ファイヤー ⑵

【火】
あたりの暗さは、より一層その火を明るくした。一方、明るくなったその火は、さらにあたりを暗くする。そして、その暗さは火を、火は暗さを、そんなやりとりをしながら、しまいにはお互いを認め合う。そこでようやく暗がりは闇になり、火は炎になるのだ。
やがて夜の炎は、後ろを振り返らせる。後ろとは、遠い日であったり、すぐそばの今日の日であったりする。
彼は私より5つ、6つ年上かな。50に手が届くってところか。
「緑色に燃えてますね」
Yさんはそう言った。
そう言ったYさんの目は昔の日ほど遠くを見てはいず、今日の日ほど近くを見つめてはいなかった。
カマドの火は、一部を緑色に染めて強く燃えていた。Yさんと私で、それはプラスチックが燃えているという事になったが、そんな事はYさんにはどうでもいい事のように見えた。彼は何か振り返りたい様子で私に話しかけたのだった。私に語ることによって、それが遠いことなのか近いことなのか確かめたかったのだろう。Yさんは語り始めた。

【闇】
「私はアル中なんです。今は飲んでいませんがね。飲むとすぐ戻ります。アル中というと、人は何だか色んな目で見ますよ。意志が弱いとか、だらしがないとかね。違うんですよ。そうじゃないんだ。病気なんですよ、これは。ほら、よくタバコの箱に(健康のため吸い過ぎに注意しましょう)って書いてありますよね。酒ビンにも同じことを書くべきですよ。ふつうに飲める人はわからないだろうけど、私らはちょっとでも口にするともうだめなんだ。それでもコマーシャルはどんどん流れるけどね。外国じゃ、酒やタバコのコマーシャルは禁止でしょ。テレビとかラジオでは。ま、商売だからって言ってしまえば、それまでだけど・・・」
私もアル中というのは、どこか気の弱いところのある人が怠け心でなってしまうものというイメージがあった。だから寺にこもったり、断酒会なるもので精神を修養したりしているのだと思っていた。
「断酒会はだめ。あそこは叱ったり怒鳴ったりする。私らは意志が弱いと思っていた。そこを突かれる。落ち込んでまた飲んじゃう。くり返しですよ。戻ってくる人が多いんですよ。私も、血を吐いたり救急車で運ばれたり・・・危なかったんです、命が。それでも少し具合がよくなるとまた飲む。アル中を病気だとは思わなかったから、性格悪いとか、意志薄弱だとかで、自分をどんどん追い込んでいくんです。だからまた飲む。どれくらい飲むかというと、ぶっ通し毎日、何日も何日も意識がなくなるまで飲むんです。酒がなくなったらミリンまで飲んでしまう。恐ろしくなるんです。自分が」

そんな日々、ある企業に勤めていたYさんは会社から、ある資産家に身柄をあずけられる。しかし、酔って車で人をはね、交通刑務所に。相手は車いすの生活になってしまう。

【灯】
やがて離婚。会社からは、その資産家の所を出るように言われ、そして解雇された。すさんだ生活であった。ところがこの頃から彼を赦す人が現れ始めるのだ。
「資産家の人は『ずっとここにいなさい』って言うんです。『人は誰からも隠れたくなる時がある』ってね。かえって荒れちまってね、酔っぱらって屋敷の中を壊してしまったんです。でも『物は買えば手に入る。自分の心まで壊さないように』って怒らない。いたたまれず、その家を出ました。事故の相手にも詫びに行ったんですが・・・『私の体はもう仕方がないんだから。それより自分の家庭を大事にしなさい』って。胸ぐらをつかんで怒ってくれた方が、どれほど楽か・・・。高2の私の娘にも会ったんですよ。心労でしょうね、髪の毛が全部抜けちまってた。でも学校に行ってるんです。平気だって。最近少し生えてきました。強いです」

その後Yさんは、A・A(国際的なアル中患者の更生組織)に入会、現在に至る。A・Aでは彼らをしばらない。ミーティングも出欠自由だそうだ。ドクターも叱らない。飲みたければどうぞ。お金がなければ貸しますよ、とサイフまで出してくる。苦しむのはあなたなのですから、と言われるらしい。すべてを赦している。別れた妻もYさんを赦している。資産家も交通事故の被害者も娘も赦している。しかしYさんは自分を赦せなかった。赦さなかった。阪神大震災は、そんな時に起きた。矢も盾もたまらずYさんは駆けつけた。

【祈】
「何でもいい、役に立ちたくてね。ガレキも片づけたし、廃材も運びました。テントを張ったり、炊事場を造ったり。もう、やる事はいっぱい。ところがある日、礼拝堂がない事に気がついたんです。信者の人たちが青空ミサをやってる。雨の日はテントに頭だけ入れたりして祈ってる。傘なんか燃えてしまって無いわけです。造りましたよ。礼拝堂を。廃材をフルに使ってね。十字架も、板っきれを体裁よくしてね。ほら、あれですよ」
Yさんの指さした中空を見上げると、そこに十字架はあった。冬の星空を背景に控え目だ。昼間、私が見たバラックは失礼にも礼拝堂だった。幅10m、奥行5mのその礼拝堂は、たき火の明かりを照り返し、質素だが堂々と見えた。

「こっちは軽い気持ちでこしらえたんだけど、信者さんたちは十字架に手を合わせて泣いていましてね。・・・なんだか不思議な気持ちでした・・・」

Yさんは少し照れた。そして、微笑した。
私は神のスマイルを見た。

ライト・マイ・ファイヤー(ハートに灯をつけて)

21年前に書いた物を、そのまま載せます。

ライト・マイ・ファイヤー(ハートに灯をつけて)

【食】
コロッケにマカロニサラダ、それにキャベツの千切りとご飯にみそ汁。そして梅干し。これがその時のメニュー。

【時】
その時とは朝。2月14日の朝。バレンタインデーだがその時は気がつかなく、午後になってそれとわかることになる。
そう、その時。1995年2月14日、午前7時40分頃。みんなと食べた朝ご飯。正確にいうと昨夜の残りのおかずだけど、すごくうまかった。青木君なんか三杯もおかわりをした。みんなもかなりの食欲だ。

【人】
みんなといってもすべてを覚えていない。何しろ、20数人はいたと思う。すうっと名前が浮かぶのが巨体のおかわり小僧、青木君。そして和田さん、浜ちゃん、鈴木さんにラッパさん。それにYさんにシスター是枝。もちろん神田神父とパウロ神父。とにかくこの20数人が、わずか30分ほどの間に食べ始め食べ終えるのだから、けたたましいかといえば実に整然としている。食堂は小さいのだ。だから青木君たちは丸太にすわって食べている。浜ちゃんはみんなのおかわりで、離れの炊事場と食堂を行ったり来たりだ。その合間に食べる。言葉は飛びかっているけど騒がしくない。「おかわり」「ごちそうさーん」「そこのソースとって」「6人で2班にしとこ」「タンスはもらうゆうてた」「コーヒー飲むヒトー?」「ハーイ(私の声も加わっている)」活気があるけど乱れていない。もう手順はわかっているといった光景。いや、風景といえるくらいだ。そういえばあと3日で1ヶ月が経とうとしている。みんな慣れているのだ。私はここへ来て2日目。

【所】
ここは神戸市長田区海運町3-3-8、カトリック鷹取教会。いや、教会の跡地というのが正しいだろう。礼拝堂も焼けた。司祭館は半分くずれかかり、その屋根はブルーシートでおおわれている。敷地内に建っていたという和田夫妻の家も、今はない。あるのは炊事場や食堂のためのテントだ。
JR鷹取駅は神戸駅から下りで3つ目の駅で、そこから歩いて3分の所にこの教会はある。そこに私はいる。東京から7時間半かけて、ようやくここにいる。新幹線、在来線、バス、そしてまたバス、再び在来線に乗り継ぎ、歩き、たどり着いたこの場所。場所とは不可解なものだ。何事もなければ、4時間たらずで着くのに。神戸が遠のいたわけではない。なぜなら私は地震がなければ、ここにいないのだから。カトリックの信者でもない私がここにいるのは、神戸が動いたからだ。大きく動いたからだ。4時間では遠くて、7時間半では近い場所。神戸。

【動】
そして今、人が動き始めた。腹ごしらえを終えた8時30分。まず朝礼。急ごしらえの2つのカマド、そしてドラム缶を改造した焼却炉のまわりに、みんなはきれいに円を描いて集まった。
そこで和田さんの声。
「おはようございます」
少し破れたバリトンの声は、彼のサングラスのせいかドスを効かせてよく通る。みんなも挨拶を交わす。
「6人ずつの2班で回ってください。古い軍手は新しいのに取り換えて。使った道具は必ず元の場所へしまうこと。家屋の取り壊しは、くれぐれもケガのないように」
和田さんの声は続いた。
みんなよく動いた。そして、よく食べた。青木君は、まだ使えるタンスをもらいに行き、ラッパさんは倒壊家屋の廃材を軽トラックで運んできた。鈴木さんはチェーンソーでその廃材を薪用に切った。シスター是枝は「自転車に乗れないのは有利よッ!」と自転車も通れないガレキの道の、類焼をまぬがれた半壊の家から具合の悪いお年寄りを連れてきた。私はその人にテルミーをかけた。神田神父は「教会の復興は一番最後。街が先や」と被災者の苦情を聞いてまわった。昼は、おでん。夜は、カレーライス。同じものを食べて、みな違う動きをした。カルシウムがどうとか緑黄色野菜がどうとか、ミネラルだ、バランスだとか言ってられない。全国からの救援物資を調理して、とにかく食べた。

1995年1月16日の夕食。阪神の人たちは違ったメニューを食べたはずだ。そしてその次の日の明け方、17日午前5時46分に同じ災害を受け、同じように逃げた。そう思うとめまいを感じた。
「緑色に燃えてますね」
Yさんの言葉に、私は我に返った。あたりは、もう真っ暗。カマドの火がはぜた。
「ほんとだ。緑色に燃えている」

このあと私は、神のスマイルを見ることになる。

→次回へ続く→

佐々木先生

ブランコに乗っていたようです。それも、まるで日課のように。母が私の居場所をたずねると、佐々木先生はニコッとしながら校庭の端を指さしたそうです。その佐々木先生の右手の人差し指のその先で、私はブランコに揺られていたらしいのです。母の言う、私の小1の時(1957年)の光景です。

私の記憶とずいぶん違うのです。私が覚えているのはこう。しかも強烈に。
佐々木先生は、夕方私をよく借りに来たんです。
「マモルを貸してくれんですか」
「どうぞどうぞ」
父も母も、店先(自転車店)で笑顔でこたえていました。当時(昭和32年)は、宿直といって男の先生は当番で学校に泊まり込みました。宿直室は木造の平屋建てで、木造校舎にくっつくように建っていました。夕方の学校は誰もいません。佐々木先生と私は、かまわず宿直室に入りました。

佐々木先生は、ガサゴソと何か準備を始めました。それも、暗くなるを待つかのようにゆっくりと。そしてあたりがすっかり暗くなった時、佐々木先生はいいました。
「さ、行くぞ。マモル!」
二人は街の明かりを避けるかのように闇の多い道を選んで歩きました。佐々木先生の右手には釣竿と魚籠(ビク)、左手は私の手を引いてくれています。月夜に黒く光る大瀬川(宮崎県延岡市)は、川面が透明なので巨大なカンテンのように見えます。佐々木先生と私は夜釣りをするのです。漁獲高はゼロだったように覚えています。でも、次の言葉は今でも鮮烈によみがえります。
「マモル、こんことは二人だけの秘密ぞ!」
父も母もこのことを知りません。知らないまま、天寿を全うしました。何しろ、二人だけのヒミツですから。
佐々木先生は宿直室に帰ると、カマドでお湯を沸かしてお茶をいれてくれました。そのあと、センベイ布団を敷いて二人で寝ました。

記憶はここで一時中断します。そして次に出てくるのは、学校の便所の事件です。尾籠な話で恐縮ですが続けます。この話を抜きにしては、私の今があり得ないものですから。

同じ小1の時、授業中に私は猛烈にウンコがしたくなっていました。そのことを佐々木先生に言えないのです。今の私には信じられないんですが、当時の私はそうだったんです。両足の10本の指で、グーを作って私はこらえました。握りしめた両手の中が汗ばんできました。でも、言えない。便所に行きたいと言えない。いつの間にか鳥肌もたっている。私の二つの眼は佐々木先生を食い入るように見つめる。(ササキ先生、ボクはウンコがしたい!)両眼以外の私のカラダがウンコに思えてしまう。

次の場面は、渡り廊下をお尻を片手で押さえながら走るともなく便所へ向かう私がいる。恐らく、私は先生に言っていない。佐々木先生が私の形相を見て便所に行くように促してくれたのに違いない。
当時の便所はとりわけ恐かった。まして、授業中の便所は誰もいない。人気(ニンキ)もなければ人気(ヒトケ)もない所・・・。一番手前の木製の戸を開けた。汲み取り式の便器はパックリと口を開けて黒々と見えた。だめだ、恐い。となりだ!次の戸を開けた。今度はなんだか気持の悪い虫が床にはっていた。ここもだめだ!だが、ガマンもピークをむかえていた。その次の戸に手をかけた。エッ?何か引っかかっている。開いてくれない!ここまでだった。全部が終わったのだ。私はそこで放出してしまった。

くやしいやら情けないやらで、私は大声で泣いて渡り廊下までもどった。でも、ここで進退きわまった。こんなかっこうで、どうして教室へ帰れようか。その場所で泣いていた。佐々木先生がその泣き声に気がついてくれて教室から出てきた。私は先生と目が合った瞬間、大音声で泣きわめき始めた。延岡市立恒富小学校は、当時2,200名ほどの生徒がいたと思う。私の大泣きに全校の授業は中断した。
佐々木先生は、私を便所わきの井戸で、手押しポンプを使って洗ってくれた。私は裸になり、佐々木先生は何度も洗ってくれた。そして手ぬぐいで体を拭いてくれた。まわりには何十人もの生徒が遠巻きに二人を見ていた。いや、一番多い時は百人ぐらいいたかもしれない。涙でくもった目で私は彼らを見た。その時は破れかぶれで泣き叫んでいた。だが、いかなることも収束へ向かう。しまいには、私のクラスの生徒だけになった。四年生の兄は、着替えを取りに家に帰されたそうだ。私はきれいになった後、佐々木先生のカッターシャツを着せられてそれを待っていた。先生のカッターシャツは、私のくるぶしまであった。その感触を今でも感じる。私は何だかとても爽やかであった。その後の私は、とてつもなく伸び伸びと育っていくことになる。

冒頭の母の思い出とえらく違います。これは一体なんなのでしょう。答えは簡単でした。私は登校拒否児だったのです。正確に言うなら入室拒否児だったということです。だから、ブランコなのです。それを私はまったく覚えていません。母の話によると、当時の母は病気がちで入退院を繰り返していたとのこと。そのため私は4才ぐらいの時に、よく父方の祖母に預けられていました。それは覚えています。祖母は正確のキツイ人で、内孫の従兄弟と私はよく比べられて、くやしい思いや悲しかったことが記憶にあるんです。健康を取りもどした母は、久しぶりに私に会って愕然としたそうです。私はすっかり内気な子になっていたから。内気な子が悪いのではない。それまでの私がガキ大将であったから、その激変ぶりに驚いたそうです。

こうして、三つの出来事、ブランコ・夜釣り・便所の件を思い起こしてみると、はっと気がつくのです。その時の私は抱きしめてもらっていたことに。目で、言葉で、雰囲気で、時間で、抱きしめてくれたのです。佐々木先生は私を心ゆくまでブランコに乗せておき、夜こっそり魚釣りをして『二人だけの秘密』を作ってくれ、文字通り私を抱いて寝てくれた。便所の件では、佐々木先生は『よし、よし』といった笑顔で私を思いっきり泣かせてくれた。今や、この三つの出来事のどれが最初で、どれが二番目にあったことかは定かではありません。それは、まるで武満徹の音楽のように、どこで始まり、どこで終わるのかを超えています。そして祖母を悪くは思えないのです。その事のおかげで、この事があったのですから。哀しいのですが、悲しくはありません。

(佐々木先生はアコーディオンが上手で、胸にヤケドの跡がありました)