佐々木先生

ブランコに乗っていたようです。それも、まるで日課のように。母が私の居場所をたずねると、佐々木先生はニコッとしながら校庭の端を指さしたそうです。その佐々木先生の右手の人差し指のその先で、私はブランコに揺られていたらしいのです。母の言う、私の小1の時(1957年)の光景です。

私の記憶とずいぶん違うのです。私が覚えているのはこう。しかも強烈に。
佐々木先生は、夕方私をよく借りに来たんです。
「マモルを貸してくれんですか」
「どうぞどうぞ」
父も母も、店先(自転車店)で笑顔でこたえていました。当時(昭和32年)は、宿直といって男の先生は当番で学校に泊まり込みました。宿直室は木造の平屋建てで、木造校舎にくっつくように建っていました。夕方の学校は誰もいません。佐々木先生と私は、かまわず宿直室に入りました。

佐々木先生は、ガサゴソと何か準備を始めました。それも、暗くなるを待つかのようにゆっくりと。そしてあたりがすっかり暗くなった時、佐々木先生はいいました。
「さ、行くぞ。マモル!」
二人は街の明かりを避けるかのように闇の多い道を選んで歩きました。佐々木先生の右手には釣竿と魚籠(ビク)、左手は私の手を引いてくれています。月夜に黒く光る大瀬川(宮崎県延岡市)は、川面が透明なので巨大なカンテンのように見えます。佐々木先生と私は夜釣りをするのです。漁獲高はゼロだったように覚えています。でも、次の言葉は今でも鮮烈によみがえります。
「マモル、こんことは二人だけの秘密ぞ!」
父も母もこのことを知りません。知らないまま、天寿を全うしました。何しろ、二人だけのヒミツですから。
佐々木先生は宿直室に帰ると、カマドでお湯を沸かしてお茶をいれてくれました。そのあと、センベイ布団を敷いて二人で寝ました。

記憶はここで一時中断します。そして次に出てくるのは、学校の便所の事件です。尾籠な話で恐縮ですが続けます。この話を抜きにしては、私の今があり得ないものですから。

同じ小1の時、授業中に私は猛烈にウンコがしたくなっていました。そのことを佐々木先生に言えないのです。今の私には信じられないんですが、当時の私はそうだったんです。両足の10本の指で、グーを作って私はこらえました。握りしめた両手の中が汗ばんできました。でも、言えない。便所に行きたいと言えない。いつの間にか鳥肌もたっている。私の二つの眼は佐々木先生を食い入るように見つめる。(ササキ先生、ボクはウンコがしたい!)両眼以外の私のカラダがウンコに思えてしまう。

次の場面は、渡り廊下をお尻を片手で押さえながら走るともなく便所へ向かう私がいる。恐らく、私は先生に言っていない。佐々木先生が私の形相を見て便所に行くように促してくれたのに違いない。
当時の便所はとりわけ恐かった。まして、授業中の便所は誰もいない。人気(ニンキ)もなければ人気(ヒトケ)もない所・・・。一番手前の木製の戸を開けた。汲み取り式の便器はパックリと口を開けて黒々と見えた。だめだ、恐い。となりだ!次の戸を開けた。今度はなんだか気持の悪い虫が床にはっていた。ここもだめだ!だが、ガマンもピークをむかえていた。その次の戸に手をかけた。エッ?何か引っかかっている。開いてくれない!ここまでだった。全部が終わったのだ。私はそこで放出してしまった。

くやしいやら情けないやらで、私は大声で泣いて渡り廊下までもどった。でも、ここで進退きわまった。こんなかっこうで、どうして教室へ帰れようか。その場所で泣いていた。佐々木先生がその泣き声に気がついてくれて教室から出てきた。私は先生と目が合った瞬間、大音声で泣きわめき始めた。延岡市立恒富小学校は、当時2,200名ほどの生徒がいたと思う。私の大泣きに全校の授業は中断した。
佐々木先生は、私を便所わきの井戸で、手押しポンプを使って洗ってくれた。私は裸になり、佐々木先生は何度も洗ってくれた。そして手ぬぐいで体を拭いてくれた。まわりには何十人もの生徒が遠巻きに二人を見ていた。いや、一番多い時は百人ぐらいいたかもしれない。涙でくもった目で私は彼らを見た。その時は破れかぶれで泣き叫んでいた。だが、いかなることも収束へ向かう。しまいには、私のクラスの生徒だけになった。四年生の兄は、着替えを取りに家に帰されたそうだ。私はきれいになった後、佐々木先生のカッターシャツを着せられてそれを待っていた。先生のカッターシャツは、私のくるぶしまであった。その感触を今でも感じる。私は何だかとても爽やかであった。その後の私は、とてつもなく伸び伸びと育っていくことになる。

冒頭の母の思い出とえらく違います。これは一体なんなのでしょう。答えは簡単でした。私は登校拒否児だったのです。正確に言うなら入室拒否児だったということです。だから、ブランコなのです。それを私はまったく覚えていません。母の話によると、当時の母は病気がちで入退院を繰り返していたとのこと。そのため私は4才ぐらいの時に、よく父方の祖母に預けられていました。それは覚えています。祖母は正確のキツイ人で、内孫の従兄弟と私はよく比べられて、くやしい思いや悲しかったことが記憶にあるんです。健康を取りもどした母は、久しぶりに私に会って愕然としたそうです。私はすっかり内気な子になっていたから。内気な子が悪いのではない。それまでの私がガキ大将であったから、その激変ぶりに驚いたそうです。

こうして、三つの出来事、ブランコ・夜釣り・便所の件を思い起こしてみると、はっと気がつくのです。その時の私は抱きしめてもらっていたことに。目で、言葉で、雰囲気で、時間で、抱きしめてくれたのです。佐々木先生は私を心ゆくまでブランコに乗せておき、夜こっそり魚釣りをして『二人だけの秘密』を作ってくれ、文字通り私を抱いて寝てくれた。便所の件では、佐々木先生は『よし、よし』といった笑顔で私を思いっきり泣かせてくれた。今や、この三つの出来事のどれが最初で、どれが二番目にあったことかは定かではありません。それは、まるで武満徹の音楽のように、どこで始まり、どこで終わるのかを超えています。そして祖母を悪くは思えないのです。その事のおかげで、この事があったのですから。哀しいのですが、悲しくはありません。

(佐々木先生はアコーディオンが上手で、胸にヤケドの跡がありました)