ギャングエイジ(イサミやん②)

夏休みになってすぐにCと私はイサミやんの家に遊びに行った。橋を三つ渡ったところに家はあった。近くには鉄道と鉄橋があった。ところが、そこからいきなり記憶がスキップする。
Cと私は、アイスキャンディをなめているのだ。ときどき、かんでいる。イサミやんからのご馳走なので大事に大事に食べている。その場所は記憶にない。暑かったからなのか、脳の中はアイスキャンディしかない。

と、突然Cと私は牧場みたいな所にいる。みたいなというのは、二人は牛を見ているので。そこは、ボクジョーという広さよりマキバのように狭かった。原っぱかな。
Cと私は、牛の背後にまわる。牛はシッポを左右に上下に振っている。尻のまわりのハエをシッポでたたいているようだ。ハエは逃げたふりして同じ場所にすぐ舞い戻ってくる。シッポはハエをたたくというよりは、風を巻き起こして追っ払っている。ハエは逃げてまた戻る。そのくり返しを二人で眺めていた。

炎天下、牛のシッポが左右に大きく振れて尻が丸見えになったときだった。牛がいきなり巨大な声で「もおぉぉ」と啼いた。と同時に二人の目の前の牛の肛門と性器がふくらんだのだ。牛の声は口から出ているというのに、「もおぉぉ」はまるで肛門と性器から出ているようだった。これはうけた。Cと私は驚くというよりも興奮していた。お互いに目を交わした。見たぁ?見た!そんな顔だった。二人は、今まで見た事ないものを見たという大発見をしたのだ。牛は啼くとき、性器をふくらます!

その後Cと私は、事あるごとに合掌した手をふくらませながら「もおぉぉ」と言い合った。互いの両手を性器に見立てているのだ。そのとき二人はニコッと笑う。二人だけの、二人にしか分からない秘密なのだ。

小4といえば10歳。児童心理学でいう『ギャングエイジ』で、世界中の少年少女たちの危機のときでもある。性の目覚めが重なるからだ。日本では『徒党時代』といっているが、子供たちが【連れ】を求めて仲間意識が芽生えるのがこの時代だという。どんな仲間で、その人数は多いのか少ないのか。イサミやんは小学校教師なってそこを目撃したかったのではないか?重大な1年を見届けたので中学校教師に戻って行ったのではないのか?

私はCと徒党を組んだ。つまり、ギャングのメンバーは二人という事になる。性格の違う二人だが、好みは一緒だった。これは良かった。ゆっくりのCと、ぐいぐい行く私。

そんな私にも危機と呼べるものはあった。同じクラスのHとその仲間の言動だ。Hたちは、しばしば私をからかった。

小2の3学期にネフローゼ(腎臓病)で入院した私は、小3の1年間というもの、体育の授業はほとんどが見学をさせられた。今度再発したら、もう治らないと医者に言われていたのだった。私は怖かった。なぜなら、となりのベッドの1歳年上の岩田君は、私と同じ病名で死んでいったから。私は臆病になった。そのせいか、本来の体の動きが戻るのに時間がかかっていた。そういうときに私は4年5組の生徒になっていた。そしてスポーツは苦手だと思い込んでいる状態だった。

そこをHにからかわれたのだ。口惜しかったが体が反応しなかった。それがまた私を情けなくさせるので困った。
そんなとき、私にはCがいた。二人でサーカスに行ったときの事だ。そのサーカスにくっつくようにしている見世物小屋にも入った。小屋に入ることを学校は禁止していたが、禁止されている事ほど興味をそそるものはない。面白い事を探す手間が省けるのだ。当然のようにCと私は20円ずつ出して入った。出し物は、禁止されている事を忘れてしまうくらい面白かった。見終わってあたりを見回すと、私たち以外は全員大人だった。

Cと私は何度もうどんを食べた。サーカスの帰りのときも、うどんを食べた。寒かったので唐辛子をたっぷりかけて食べることにした。思った通り体がカッカしてきた。そのまま間を置かずに自転車を飛ばして帰ったら、全然寒くなかった。狙いが大成功だったので、二人はまたニコッと笑った。そんな日々が、Hたちのからかいを忘れさせた。そのうち私の体力も回復してきたからなのか、Hはからかうのを止めた。すると、その仲間もからかうのを止めた。

2017年7月13日、真夏の吉祥寺。私はCと会ってイサミやんの思い出を確認していました。エピソードはたくさんありましたが、Cの記憶と私の記憶はほぼ合致しました。ただし、その『ほぼ』という点で微妙なのです。暑かったからなのか、アイスキャンディの話になったとき、Cは言いました。
「イサミやんの家に行ったのは二人だけだったっけ?」
「エッ?他にいた?」と、私。
その後、二人だけのような、何人かいたような話が続きましたが、やっぱり『もおぉぉ』が強烈で、人数の話題は吉祥寺の炎天下と延岡の炎天下に溶けていきました。

Cの記憶で不思議だったのが、話が小学校時代そのものに及んだときです。イサミやんの印象が強くて、5年6年時の担任が誰だったのか思い出せないと言うんです。これは不思議というより愉快です。4年5組の同窓生の私としては、Cと目を合わせてニコッとする場面です。実際、そうしました。4年5組の同じ窓の、内と外。そこで見た景色は鮮やかです。やっぱりこれは、降って湧いた1年でした。

イサミやん

その人は、1年間だけ人生を変えてみた。
小学校教師になったのだ。
1年後にもどった元の職業は中学校教師。
一度だけでいいから、小学生にかかわってみたかったという。

そのわずか1年間の始まりは1960年4月。その人がかかわった、いや、教えた場所は、宮崎県延岡市立恒富小学校4年5組。東西に細長い校舎は一見すると1階建て。でも、よく見ると西の端だけ2階建てで、それはまるで1教室が空から降ってきたようにも、校舎から生えてきたようにも見えた。降って湧いたクラス、4年5組はそこにあった。そして9歳の私はそこにいた。

新学期が始まって数日が過ぎた頃、ひとりの転校生がやって来た。Cという名の彼は医者の息子でノッポ、私は自転車屋の息子で固太り。二人はその日に友達になった。
「いや、違う」とCは言う。「すぐに友達になった訳じゃない」と今でも言う。
Cのその日の記憶はなかなか具体的で説得力があって、私には分が悪い。

彼はその日、下校してランドセルを家に置くとスグにでかけたそうな。
引っ越しした日に見つけておいた駄菓子屋に行くために。
その店の正式名称は『青木商店』、われわれ子供たちの呼び名は『ゴロウさんの店』。
Cは、何を買うでもなく店に入った。(今でも、そうだ)
そこに私がいたと言う。(記憶にない)
私と目が合うと(そうかぁ?)、私は彼にこう言ったらしい。(何て?)
「なんかオゴレ」(えっ!)
Cは驚いた。
転校してきた日に『なんかオゴレ』と言うヤツがいるんだ。(ヘイ、バディ!)
Cは少しだけボーッとなった。(友だちのチョットしたアイサツだろ⁉︎)
そして彼は私に何かオゴッタ。(合格⁉︎)
この件だけは二人の言い分は違うが、他はバッチリ合っている。特に4年5組の記憶は。

Cと私は、その人のことを「イサミやん」と密かに言った。いや、クラスのほとんどの男子が密かに「イサミやん」と呼んでいたかもしれない。九州では親しみを込めて名前に『やん』を付けて呼ぶ。それ程、きのした いさみ(木下 勇)先生のことをみんな好きだった。

イサミやんは変わった人だった。クシャミが始まると、まず止まらない。毎回それは、30数発は続く。数がわかるのはクラス全員で声を出して数えたからだ。クシャミも大きかったけど私たちの声も大きかった。
「いーち、にーい、さーん、しー」と歓声に近い声で数えた。ドキドキしながら数を数えた。みんな、記録更新を期待していたからだ。

イサミやんは不思議な先生だった。やや彫りの深い顔に、濃い眉がすっきりとしていて、その下の目が優しかった。その目が本に向けられる・・・・・。5秒くらい。
そして私たち生徒に向けられる。先生の目が再び本に戻ると、それが始まる。怪談だ。

給食は掻っ込むように食べた。女子を除いて男子のほとんどが早食いだった。誰もが昼休みの時間がイノチで、とにかく早く遊びたかった。廊下で『馬乗り』、グラウンドで『馬蹴り』『磔(はりつけ)』『ひょうたん鬼』『三回まわり』。上級生、下級生の違いはあっても男子のほとんどが教室の外で遊んだ。4年5組を除いて。

もちろん私たちも給食は早く食べた。女子は女子なりに。そこまでは他のクラスと同じ。ただし、何の為かが違った。昼休みとは、イサミやんの怪談話が聞ける時間なのだ。ラフカディオ•ハーン、小泉八雲の『怪談』の朗読だ。いや、イサミやんのは朗読というよりも講談のようだった。朗読は目を閉じていても聞けるけど、私たちは目をそらす訳にはいかなかった。イサミやんの顔に。その表情に。

「ホーイチ」
平家の落武者になっているイサミやんの顔。濃い眉の下の眼が鋭い。
「ホーイチ」
低い声だ。地べたを這って聞こえて来る。すでに私たちは芳一になっている。女子も男子も金縛りだ。いや、これでいいんだ。動くと、今夜もまた落武者に連れて行かれる。
「ホーイチ」
落武者の声が荒くなっている。いつもの琵琶法師が今夜に限って見つからない。

『耳なし芳一』はこうやって語られていく。毎日、少しづつ。それから校庭で遊んだ。

『むじな』の話の時のこと。女の顔を見てしまった商人は、驚いて紀の国坂を駆け上って逃げた。あたりは真っ暗だ。見回している事さえ暗いので分からない。走って走って走る。走っている気がしない。暗すぎるのだ。
と、そこに明かりが見える。おぉ、人だ。屋台のそば屋だ。き、き、聞いてくれッ。
「どうしなすった」
そば屋が問う。
「み、見たんだッ。顔が」
商人のかすれ声。そば屋が自分の顔をなでながら言う。
「その女は、こんな顔かい」
イサミやんのそば屋の、イサミやんの商人の、イサミやんの女の、その顔、顔、顔。
固唾を呑む4年5組。降って湧いた教室。
降って来たようなイサミやん。
湧いて来たような1年間。