病気という刺激

治療は刺激だと、私は翻訳します。なぜなら世界の医療は、身体に刺激をあたえることで実は、あることを期待してきたからです。反応です。この世の現象は、刺激と反応の連続のようにも見えます。

さて、病気も刺激のひとつだと翻訳していきますが、その前に。
しばしば私が『翻訳』という言い方をするワケを述べておきます。ほかの言い方では解釈というのがありますが、解釈は時代や立場によってコロコロ変わるんです。
「そういう時代だったんだよ、あの時は」
「フツウそうしない?みんな」
「その状況になれば、誰だってそうするって!」
変わるのがイケナイとはいいません。変わるのがイイともいいません。ただ私は、その時、その立場にまだなってもいないのにという、その意識だけは持ち続けようと思うのです。騒々しくない訳し方、静かな解明のやり方を目指して、私は翻訳という言葉を使っています。

病気という刺激は、反応を促します。身体の反応としては、痛み(かゆみ、シビレを含む)、体温の上下、ケイレン(戦慄、悪寒を含む)など多様です。心の反応はどうかというと、不安、恐怖、動揺、拒絶、無視、絶望、祈りなど、それこそあらゆる心理が観察されます。冒頭で私は、刺激と反応の連続がこの世だと表現しました。ここで注意して欲しいことがあります。それは、私たちがいる場所というのが、今の世の中だということです。

ところで、ひとつ提案をします。かなり昔の世の中で、人が具合を悪くしたときのことを想像してみませんか。その人はきっと、最悪の場合は身を横たえ、症状が軽ければ自分の手を患部に当てたと思いませんか。文字通り、『手当て』の原形をその人は表現しました。事によると、薬草を患部に当てがったり、かじったりしたかもしれませんね。そういう時代だったのでしょう。病気という刺激に対して、本能的な反応や、当時の常識的な行動をとったのですから。

一方、今の世の中にいる私たちが体調を崩すという刺激を受けたとき、果たしてどのような反応を示すのでしょうか。その前に、どのような心理状態になるのでしょうか。良くも悪くも、外からの情報が多過ぎる私たちは自分を失う可能性が高いと思われます。内からの情報という、いわゆるヒトとしての本能を、私たちは翻訳できなくなってきているのが現状です。外からだけの情報は、解釈を誘いがちです。痛みという刺激に対して、専門家に指示してもらおうという反応。発熱という刺激に、とにかく下げなきゃとクスリ求める反応。疲労という刺激には、ビタミン剤でガンバルという反応。

誰も非難しない行動、いや反応でしょう。だってほとんどの人がそうしますから。そういう時代ですから。万が一、そうしなかったとしたら?まわりの人は、
「大丈夫?悪化するぞ!」
「なにやってるんだろ?変な人」
「……?」
その他、似たり寄ったりな反応でしょう。何に対して?もちろん刺激に対してです。〈思う通りにする〉という刺激に対して、〈考えられない〉という反応です。

困ったことに人のリアクションは、こちらのリアクションを誘発します。もう、どっちが刺激か反応か分からないという、騒々しい状態になっていきます。この世の特徴、刺激と反応の連続ですね。。でも、一度病気を刺激(サイン)としてとらえてみると、自分はどのような反応(思い•行動)をしていくのかという静かな時間を経験できます。翻訳の開始です。

安保徹(あぼ とおる)先生は言います。「過酷な労働、不安感、恐怖心などが身体を低体温、低酸素状態にする。それが発癌のメカニズムなのに」

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