「とにかく、気持ちが悪くて」
兄は語り始めました。
「トイレに行こうとしてベッドから立ったのは覚えているんだけどね」
「テーブルの下に倒れたのは?」
すかさず私はききました。
「そう、その記憶がないんだ。ただ、別の記憶があってね。それがすごかった」
兄の体験はこうでした。テーブルの下に背中から倒れた時、亡くなり始めていた。もうその時点では苦しくなく、どうやらどこかへ出かけていたようで、その場所は薄暗く、遠くから水平に白い光のようなものが自分に向かって近づいてきた。ということは、トンネルのような暗がりを歩いていて、自分の方から白い光に向かっていたんだろう。しだいに光に近づいて行くと、今度はいきなり光に包まれていた。明るいけど眩しくはないその光は、液体のようで温かかった。
「でね、なんともいえないほど気持ちがいいんだ。何かが見えるわけじゃない。ただ光だけ。だけど幸せっていうか、ただただうれしくって」
兄は語りながら、まるで今それを味わっているかのように至福の顔になっていました。というより、恍惚とした表情でした。私が今でも憶えている兄の言葉を羅列してみますと、
「思考はしていなくてね、なんていうか感情と感覚だけの状態、かな」
「すべてを理解し終えた後のような安堵感だね」
「安心が喜んでいるみたい」
ところが、この辺りから兄の体験の内容が変わってきます。
「満ち満ちている自分を眺めている自分に、突然気づくんだ。エッと思った瞬間、何かが聴こえるんだよ、しかも耳元で。それがマモくんの声だったんだ」
(マモくんとは、私の呼び名)
「それが大声でね。『兄さーんッ!兄さーんッ!兄さーんッ!』って、うるさいのなんの。あんまりうるさいから、返事をして黙らせようしたんだ。その途端、今までいた安心の世界からこの身体に引き戻されたんだろうな」
惜しいことをしたとでも言うように、兄は苦笑していました。その顔が切ない表情に変わってくると、兄はゆっくりと噛みしめるように言いました。
「それからが辛かった。痛くて痛くて。ほんとに苦しかったね」
兄が倒れたあの時、私の呼び声に力なく目を開けた兄。
うつろな目を泳がせて、「目が見えない」とつぶやいた時。
兄の耳元で私は叫ぶ。
「プラーナヤーマ(ヨガの呼吸法のひとつ)をやらんと!人にヨガを教えるくせに!自分でやらんと!」
再び意識を失っていく兄。
W病院の一室で吐血を明け方まで繰り返した兄。
臨死体験中の兄と、私たちの起こしたアクションと私たちが目撃した出来事との時間軸の違いは、一体なぜ生じるのでしょう。それはもはや、謎ではありません。アニータ・ムアジャーニの1冊目の本『喜びから人生を生きる』を読んでいる最中に、私はあることを直観しました。