二つの時間

先ずは、濃い時間と薄い時間を翻訳します。前回で強くススメました映画『光のノスタルジア』『真珠のボタン』の監督、パトリシオ•グスマン。彼は少年時代に、きっと薄い時間をしっかりと過ごしたことでしょう。そうでないと、あの映画は撮れません。

薄い時間とは、その人が生きている真横にいて、その人が見つめるものを一緒に見つめている時間のことを言います。なので、薄いと書くよりも淡いと書いた方が翻訳になると思うんです。

一方、濃い時間はと言うと、その人の前にいて、その人の動きや考えを急かします。後ろにいる時もあって、その場合は煽ります。厄介なのは、その人の前後の両方にいる時です。サンドイッチのようにその人をはさんで、身動きを取れなくすることもあります。本人がそれに気がつけばいいんですが、ほとんどの場合「スケジュール通り!」と思い込んでしまっています。

濃い時間や、濃い時間の場所の具体例を挙げるのは容易です。今の世の中を眺めれば、いたる所にあらゆる場面に目撃できます。濃い時間の特徴は速さですから、文字通りファスト•フード店やラッシュ時の駅のホーム、「チーン」の合図で仕上がる電子レンジや即刻届くメールやファックス等々、便利な場面がそうです。

この『便利』という急流は、困りものです。美空ひばりの「川の流れのように」ではないですが、昔から人生は水の旅にたとえられてきました。源流のように細く、でも清く、せせらぎでは輝き、あるものは池にたたずみ、川になって曲がり、湖に集まり休み、中には再び川へ合流し、淀むのもいれば急ぐのもいて、まるで海がゴールと思い込んでいるかのよう。実は、旅の途中の水にも蒸発して空へ向かうのもいます。そこで仲間と共に雲になるのもいたり、滞在が長過ぎたのか雨として旅に復帰するのもいます。

連続急流の『便利』は人生の流れを単調にします。しかも、大急ぎで大忙しですから「個」でいるヒマがありません。いつも流体という集団で移動の連続です。言い換えれば、とにかく速ければいいというのが『便利』のようです。スグに出るのが「答え」で、オソイのは「答え」ではないかのようです。そうして、世間も時代も走り始めます。歩くという字は、少し止まると書いて心理まで滲み出ていますが、走るは肉体の状態しか表れていません。

最も濃厚な時間、つまり最も速い時間とは、いったい何なのでしょう?それは、核爆発です。それは最も便利なものなのでしょうか?あるものにとっては、そうでしょう。エゴにとっては。次回にします。

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