体内星座

カルシウムは私の体温を上げた。この体験は、あるひとつのイメージを膨らませます。骨そのものには、つまりカルシウムには温度はありません。仮に、骨を水に浸せば水温と同じに、空気にさらせば気温と同じになるでしょう。ところが、生命にカルシウムを注入すると体温を上昇させる。では、最初から備わっている私の骨格というカルシウムは一体なにをしていたのでしょうか?単に身体を支えるためだけだったのか。

いいえ、そうではありません。生命を支えていたのです。あのまま、カルシウム注射をしなくても数日後には私の蕁麻疹は治っていたでしょう。自前のカルシウムを使って。どこから?骨格というカルシウムの貯蔵庫から。ただし、時間はかかります。数日間という【薄い、淡い時間】が。あの時の私は、外からカルシウムを注入してスグに治すという【濃い時間】を使ったのでした。

骨が生命を支えていることの別のメカニズムもあります。生命体にある骨には、中心に腔があり骨髄が満たされていて、その骨髄が血液を造るといわれています。滞りなく血が巡っている状態を健康といい、血流が悪いと体調を崩します。止まれば死に至るわけですから、無理を戒めて『骨休め』というのは言い得て妙だと思います。もっとも、造血をおこなっているは骨髄ではなくて腸だという学説もあります。どこを出発点とするかの違いですが、参考までに。

一方で、カルシウムは感情を安定させる働きがあることが推測できます。犬の実験と、高校生の調査です。言い換えれば、カルシウムは生物を静かにさせる効果があるとも言えます。短気な人もそれなりに落ち着いて、怒りっぽい犬もそれなりに穏やかになる。ゆっくりした時間、ゆったりした空間、ほっこりした人間。【薄い、淡い時間】

『忙しい』は英語でbusy〔手がふさがっている〕、その派生語がbusiness〔仕事〕なので、ほどほどのペースを見つけたいですね。急ぐと、時間の幅が狭くなり、空間の幅が狭くなり、人間の幅が狭くなるようです。【濃い時間】

130億年前のビッグバン直後にカルシウムが作られたとしても、私は次の提案をしたいのです。毎日がビッグバン、たった今がビッグバンと認め、星々と同じ成分のカルシウムを私たちの体内にも感じてみる。そして体内の星たちと再会して欲しい。ずっと一緒だったんです。それを忘れていた。それを思い出して欲しいんです。それは、ひとつの瞑想といえるでしょう。

続、エゴの回収

風葬は、曝葬とか空葬ともいわれるように遺体を樹上や山林•平地にさらしておく葬法です。そういう意味では林葬も鳥葬も、その具体的な言いまわしだと思います。そしてここでも、バクテリアを始めとする多種多様な生物の食物連鎖のドラマが展開していきます。捕食されて消化吸収されるという【時間】。そしてその生物のエネルギーとなるカロリーという【火】。エゴの回収は続きます。

風葬の場所が砂漠ということも当然あります。砂漠の圧倒的な乾燥は、あらゆる生き物にとって過酷な環境です。腐敗すらしない状況です。いうまでもなく、そこでの食物連鎖は限られてくることになるでしょう。では、どうやって風葬というものが成り立っていくのか?ひとつ造語をしてみますね。乾葬という言葉です。

遺体は今や、徹底的な乾燥によってバクテリアも死滅し、したがって腐敗もしないし、それを捕食する生物もいない世界にあります。何がそうさせるのでしょう。天日、太陽です。地球のマグマを極限にまで高温にしたもの、それが太陽です。太陽こそが根元の【火】でもあるのです。そこへ砂嵐の風と砂が、まるで砂時計のように【時間】をかけて衣服も体も削っていく。やがて遺体は、カルシウムだけになっていきます。

天文学者ジョージ•プレストンは、映画『光のノスタルジア』でこう語っています。
「講演でいつも話すんです。骨のカルシウムがどのように作られたか。私たちの起源の物語を。私の骨のカルシウムはビッグバン直後に作られた。すべての原子はそこに。自然の中に住むように、我々は星の中に住む宇宙の一部なのです」
最近では、星の探索をするときにカルシウムの波長を応用する方法もあるようです。

カルシウムとエゴの関係性を次回に翻訳します。

エゴの回収

人間の脳。その同居人、エゴ。ある日エゴが同居をやめて、その人から離れるときがやってきます。死です。脳が停止するのですから、エゴは同居を続けることができなくなるのです。そこでエゴは元いた場所である【時間】に戻ります。そしてエゴの本来の姿としての【火】に還るわけです。

人が亡くなったとき、私たちは荼毘に付します。いわゆる火葬ですね。世界では、土葬や水葬、風葬、さらには林葬や鳥葬という風習もあります。火葬は文字どおり火を使いますから、エゴは本来の姿へとそのまま帰還していきます。ならば、他の葬儀でのエゴの帰還の様子はどうなのでしょう。

実は土葬も水葬も風葬も林葬も鳥葬も、すべてにおいてエゴは【時間】と【火】に回収されていきます。その様子を翻訳しながら述べてみましょう。
火葬に比べて他の葬の儀は、ゆっくりという時間を必要としていることがわかります。遺体は埋葬された後、長い【時間】をかけて土に還っていきます。土にはバクテリアがいて、生態系の物質循環の役割を果たしています。つまり、遺体はバクテリアのエネルギーになるんです。カロリーという熱還元【火】ですね。そうやって土に同化してやがては『土になる』のです。

水葬はどうなのでしょう。「海の藻屑となる」という表現があるように、海にはバクテリアよりも大きい生物が多種類にわたって棲息しています。その生き物たちの食物連鎖の出発点に、水葬にされた遺体があると思ってください。あとは連鎖していく捕食のストーリーを想像してみてください。そこには、食べて食べられるという【時間】があります。そのときに、消化されて栄養という【火】になるのです。

風葬はどうなのでしょうね。その続きは次回にしましょう。

時間の里山

ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ。一瞬にして人生を変えてしまった場所があります。この国の場所とは、この星の場所ということです。地球には、ビキニ環礁・スリーマイル島・チェルノブイリという場所もあります。人間のエゴによって濃くされてしまった時間とその場所は、元へ戻ろうとします。時間の本当の姿である、薄い時間へ淡い場所へと。

濃い場所はというと、たとえば原発事故が起きた場所がそうです。思い出して下さい。わずか5年前のことです。
「事故直後の現場には、放射能が強く出ています」
「ただ今、高濃度のため半径5Km内には近づけません」
「汚染が拡大しています」
「線量の半減期は、数ヶ月、数十年、物によっては数万年」
「西寄りの風で太平洋に汚染が拡がっています」
「ただちに人体に影響があるということはない」

当時、私たちは異口同音につぶやいたものです。
「ただちに人体に影響が出ないということは、徐々に人体に影響が出るということ?」
「専門家が近づけない場所に、誰か近づける人っているの?」
この時の?マークは、疑問ではなく不安を表わしていました。こういう国家レベルの事件が起きたとき、たとえば戦争、たとえば原発事故、たとえば国家間の取り引き(密約)、こういったときは必ず情報が少なくなります。出来事が【濃い】ほど、情報は【薄く】なっていくのです。それは世界中の人が経験していることです。どうしてそうなるのでしょう?すべて人災だからです。

薄い時間とは、たとえばそれぞれの人生のことです。
☆生まれた日が違う→生まれた場所も違う→育った環境も違う→経験することも違う→それを心にどう刻むかも違う→そして亡くなる日も違う。
濃い時間とは、国家レベルの事件のことです。
★たくさんの人生たちが、同じ経験をさせられる→違う日に生まれたのに、同じ日に亡くなる→残された人は、遺族という同じ境遇にさせられる。

フィンランドでは、原発で生じたゴミ、核廃棄物を地下深くに埋めるために毎日のように穴を掘っています。10万年後まで封じ込める計画だそうです。それほどの時間をかけないと、放射能が無くならないからです。気の遠くなるような話ですが、ここで気を失わないで下さいね。続きがあるんですから。

核のゴミの地下貯蔵施設を示す、表示板のことで問題が起きているんです。危険を表示するのに、どんな言語がいいか、それとも単なるマークだけの方がいいのか。つまり、
•10万年は長い、その間フィンランド語が大変化をしたり消滅しているかもしれない。
•マークだと、果たして未来の人が正しく理解できるのか?誤解しないだろうか。
•たとえば3万年後とか5万年後に、読めない字や不思議なマークを勘違いしたら?
•エジプトやメソポタミアのような古代遺跡と思い、発掘調査を始めたとしたら?
•放射能がまだ無くなっていない時に開ければ、被曝する。

NHKのBS1で1度、渋谷の映画館でも観たドキュメンタリーです。学者や専門家が真剣に悩んでいる姿は、笑い飛ばしたいのにそれができないという、奇妙な疲労を私に与えました。火力•水力•潮力•風力•地熱•太陽光発電が束になったとしても、たった一ヶ所の原子力発電にはかないません。濃縮ウランやプルトニウムとは、人が造った最も濃厚なものです。手間ひまかけて発電するという薄い淡い時間に対して、核分裂で一瞬に熱量を出す原発ほど濃い時間はありません。人工の濃い時間たちでできている核廃棄物は、やがては薄くなるでしょう。やがてとは、薄い淡い時間たち数万年分だということです。

それが、時間の回収です。何がそうさせるのでしょう?自然の時間は薄くて淡く、人工の時間は不自然で濃いと知っている【純粋時間】が、そうします。そしてさらに【純粋時間】は、もう一つの作業を行います。人間のエゴの回収です。 ~次回に~

時間の本当

好きな事をしていると、あっという間に時間が過ぎていきます。時計を見てビックリすることもあります。不思議なのは、同じ時計なのに嫌いな事や苦手な事をしていると時間がなかなか過ぎてくれません。これは一体、何故なのでしょう?その解釈は数多くあるようです。

集中すると、時間なんか気にならないから。
いや、時間の伸び縮みは実在している。
好きな事って中身が濃いから、時間もたっぷり使ったはずと錯覚する。
そんな事を考える方が、よっぽど退屈で時間の無駄使いになる。

他の解釈もあるでしょう。もちろん上記の解釈は正しいし、アインシュタインも一役を担っています。ただ、ここでは翻訳を試みます。まず、皆さんに呼びかけたいのは、あなたの幼いころの様子を思い出してみてということです。その際に、強力に手伝ってくれるのが『子供が孤独(ひとり)でいる時間(とき)』[こぐま社刊]という本です。興味のある方は是非。

記憶として最初に出てくるのは、何歳ぐらいのころですか。よおく思い出して欲しいんです。その時の景色や気温や服装、日中なのか、夜か朝か。ほかに誰かいたのか、あなた一人なのか。ゆっくり時間をかけてOKです。これを毎日やっていると、しだいに意外な事を思い出してきます。もしくは、一気に思い出すこともあります。しかも、何か別のことをやっている時に。これは、ちょっとした驚きですよ。

いかがですか?会って直に話を聞きたいです。きっと皆さん一人ひとり違ったことを思い出したことでしょう。でも、その中にはどなたにも共通していることがあるんです。それはその当時、何ごとも比べるということをしていなかったということです。すべてが新しい体験だったわけですからね。実はここが大事なポイントです。注意深く観察する必要があります。

今の皆さんの実年齢でも、日々のすべてが新しい体験のはずなのに、なかなかそうは思えません。私を含みます。[同じような]経験を重ねてきたという思い込みがあるからです。[同じような]と[同じ]は違います。ところが私たちは、似たような経験をすることで、前々回、前回、今回を比べて、似たところを探して次の機会に活かすという特徴を持っています。それを、進化のひとつと表現することもできるでしょう。

進化に良いも悪いもないのですが、私たちの淡い時間が失われていくことは事実です。幼いころには誰でも持っていた、薄い淡い時間。それが本来の時間なのだと知っている【純粋時間】は、人間のエゴを回収することを始めます。 ~次回へ~